この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(最終話)
【これまでのあらすじ】
綾香に不倫がバレて仕事も辞めることになった千紗。『必ず連絡する』と言った悠真さんからの連絡も途絶えた。
仕事を退職してから2週間くらいが経った頃、カウンセラーの赤城さんが悠真さんからの手紙を持って訪ねてきた…
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この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第9話)
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この恋は幸せになれない?好きになってしまったのは、奥さんのいる人。(第1話)
故郷
「千紗ちゃん、それ終わったらあがっていいよ」
母屋から聞こえてきた声に、「はい」と返事をする。庭の掃き掃除を終えて道具を片付けていると、渡り廊下にいた女将さんに手招きをされた。
「はい、これ。臨時ボーナス」
「え、いいんですか?」
「お客様からチップを頂いたのよ。千紗ちゃんにずいぶん良くしてもらったっておっしゃっていたわ。帰りに美味しいケーキでも買いなさい」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
「ご苦労様。また明日ね」
女将さんにお辞儀をしてから、離れにある更衣室へと向かう。その途中、窓の外に広がる青く穏やかな空を見上げ愛しい人の顔を思い浮かべた。今頃、どうしているかな……?
あれから故郷に帰った私は、祖母の伝手を頼って温泉旅館で働き始めた。初めは慣れないことばかりで大変だったけど、良い同僚に恵まれて何とか上手くやっている。祖母も退院して元気を取り戻し、心穏やかに慎ましく暮らす毎日だ。
「千紗ちゃん、お疲れ!これからランチに行かない?」
更衣室に入ると、先輩の明美(あけみ)さんが笑顔で声をかけてくれた。
「えーと、今日は……」
「たまにはいいでしょ?支配人がね、千紗ちゃんに気があるみたいなの。1回だけ、チャンスをあげてくれないかな」
「そういうのは、ちょっと」
「どうして~?なかなかイケメンだし、良い人なのは知ってるでしょ?千紗ちゃんとお似合いだと思うけどなぁ」
「ごめんなさい、本当に」
「もしかして好きな人がいるの?」
「え?」
「何となくだけど、そんな気がしたから。違う?」
なかなか鋭い質問に、心の中で苦笑する。
「いませんよ、そんな人」
「そうなの~?もったいなぁ、その歳ならまだまだいくらでも恋愛できるのに。支配人はバツ1だけど、かなりの優良物件なのよ」
明美さんは納得していない様子だったけど、それ以上追及してくることはなく、「気が向いたらデートしてあげてね」と私に念を押してから更衣室を後にした。
「……いくらでも恋愛できる、ね」
1人になって、ポツリと呟く。恋愛はもうこりごり。やっぱり私は恋愛に向いていなかった。だけど、ひとりの人を心の底から好きになれることを知った。
それを教えてくれた彼には感謝している。着替えを済ませた私は、いつも鞄の中に入れている手紙を取り出し、開いた。
◆
手紙
この手紙を読んでくれることを信じて、筆を執ります。千紗が初めて僕を調査したあの日、尾行がバレていたと知った千紗の顔を今でもはっきり覚えているよ。真面目で律儀で責任感があるこの人なら信頼できると思ったんだ。
少しだけど、僕自身の話をするね。僕の両親は僕が物心ついた頃から不仲で、僕は祖父母に預けられて育ったんだ。
家には常にお金がなくたくさん苦労をしたから、僕は安定した生活を夢見て綾香と結婚したんだ。だけど「安定した生活」というのは、必ずしもお金じゃないことを知ったよ。
千紗が家庭の悩みを打ち明けてくれた時、自分と同じように苦労したんだと共感した。そして悩みを抱えながらも一生懸命に生きている千紗に興味を持った。
真っすぐなところや優しいところ、思いやりのある人柄にどんどん惹かれて、気が付いたらいつも千紗のことを考えていたよ。
心の底から好きだと思える人は、千紗が初めてだった。全てを捨ててでも一緒にいたいと、強く願った。その願いはすぐに叶えることができなかったけど、どうか待っていて欲しい。
―――――――……
「いつか必ず迎えに行くから」
最後の一行を読み上げたあと、自然と息が漏れた。幾度も幾度も読んでボロボロになった手紙を、鞄の中に戻す。初めてこれを読んだ日は、目が腫れあがるくらい泣いた。
彼が恋しくて、こうなってしまった運命が切なくて、会えなくなることが悲しくて、心の底から想ってくれたことが嬉しくて泣いた。故郷に戻ったあとも、折に触れては手紙を読んで涙を流した。
そうして涙も出なくなった頃、待ち望んだ「いつか」は来ないと理解した。いや、来ない方が良いと願うようになっていた。だって、私にはもう……。
「あ、千紗ちゃん。まだここにいた」
不意に更衣室のドアが開いたかと思ったら、帰ったはずの明美さんが顔を覗かせた。
「千紗ちゃんに会いたいって人が来ているけど」
「え?」
まさか……。
◆
再会
その姿を見つけた瞬間、涙が溢れそうになった。品のある佇まい、穏やかな雰囲気、優しい笑顔。最後に会った時から少しも変わっていない。恋しくて、何度も夢で見た彼だ。
「悠真さん」
「千紗、久しぶりだね」
「どうしてここに?」
「迎えに来るって言ったでしょ。5年もかかっちゃったけど……遅くなってごめんね」
「あ、あの、とりあえず外に……」
まさか「いつか」が来るなんて。本当に迎えに来てくれるなんて……。夢を見ている気分で悠真さんの顔を眺めた。
「千紗が言っていた通り、自然が多くて本当に綺麗なところだね」
「どうして場所が分かったの?」
「自分で教えてくれたじゃないか、『地図で言うとくびれているところ』だって」
あ……そういえば、言ったような気がする。2人で旅行した時だったかな、覚えていてくれたんだ。旅館を出た私たちは、近くの公園へと向かった。ベンチに腰を下ろした悠真さんが、私の手を取り優しく微笑む。
「会いたかった」
「……私も」
「あれから、どうしてた?」
「必死に生きてた」
そう、必死だった。今でこそ慎ましく平凡に生きているけど、故郷に帰って来た当時は、何もかもを失って息をするのも苦しかった。
どうして私だけがこんな思いをしなきゃいけないのかと、悠真さんを恨めしく思ったこともある。だけど、それでも彼のことが好きな気持ちは変わらず会いたかった。ずっと。
「やっと離婚が成立したんだ」
会いたかったけど、もう会わない方が良いと思っていた。私たちの想いを貫くには、あまりにも困難が多く、たくさんの人を傷つけた。不倫の代償はもう十分払ったつもりだけど、そう簡単に許されるものではない。
「随分長く待たせてしまったけど、やっと一緒になれるよ」
一緒になれるなら地獄に落ちても良い、全てを捨てても良いと思っていた。だけど、だけどね……。捨てられない大切なものが私にはできたの。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「一緒にはなれない。いえ、ならない」
「どうして……」
その時、公園の向こう側に小さなシルエットが見えた。私の祖母に連れられて、ゆっくりこちらに向かって来る。
「私ね、やっと今幸せになれたの」
「それは……僕以外に良い人がいるってこと……?」
小さなシルエットが、私に気が付いて、大きく手を振る。買ったばかりの赤いコートは、汚すなって言ったのにもう泥だらけだ。
「うん。良い人がいるの。今はその人が大切だから、元に戻ることはしない」
「千紗、」
「会いに来てくれて嬉しかった。ありがとう。さよなら」
たくさんの愛をありがとう。たくさんの思い出をありがとう。好きになってくれてありがとう。
人を愛する気持ちを教えてくれてありがとう。鞄の中の手紙は、これからもずっとお守り代わりに持っているね。さよなら、お元気で。
◆
私なりの幸せ
「光莉(ひかり)」
「ママー!」
満面の笑みで飛びついてきた小さな体を抱きしめると、それだけで心が満たされる。何よりも、誰よりも、大切な私の天使。
「さっきのひと、だぁれ?」
「んー誰だろうね」
「ママのかれしでしょ~」
「違うよ、ママは彼氏なんかつくらないもん」
「どうして~?」
「だって、ママは光莉だけのママだから」
光莉を妊娠しているのが分かったのは、故郷に戻ってすぐのことだった。初めは戸惑ったけれど、産まれた我が子を抱いた瞬間、女ではなく母として生きることを決めた。
この子の父親がいつか会いに来てくれたら?その時は3人で暮らす?何もなかったかのように生きていける?いいえ、できない。何度も自問自答した。
昔のようにまた流されてしまうかもしれないと不安だったけど、自分で思っていたよりもずっと私は強くなっていたらしい。もう誰かに依存する生き方はしない。
「そうだ、今からケーキを買いに行こうか」
「ケーキ?やったー!」
未婚の母であることを、不倫の末に産まれた子であることを、いつか誰かに非難されるかもしれない。それでも私は私なりの幸せを、私らしく生きていく。
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